サラエボ紀行
本日、サラエボからミュンヘン経由で日本に帰国しました。
ミュンヘン空港では飛行機の遅れで、走って乗り継ぎましたが、10時15分に成田に到着し、会社に戻ってきました。
1992年から95年まで、当時私が高校3年生から大学生3年生だった頃、旧ユーゴスラビアでは内戦による惨事により、悲しい出来事が日常的に起きてました。
町を歩くと至る所に銃撃の跡が見えます。
かつてサラエボオリンピックが開かれた会場近くにあるFCサラエボ(サッカーチーム)のグラウンドは、夥しい数の市民墓地となっておりました。本来の墓地は、敵の領地にあったために、グラウンドを墓地にしたとの事でした。特に94年、95年に亡くなられた方が多く、いかに惨い状況だったかを思い知ります。
今は復興が進み、内戦は収まったものの地雷が残っていたり、失業率は40%近くにまで膨れ、政治の腐敗は横行し、決して安泰とは言えません。
しかし、人々は親しみやすく、歴史と文化の香りが漂う、多様性溢れる街となっておりました。
ただ、表面と内面には、深い溝があり、伺い知ることは出来ません。
宗教対立や民族紛争は、日本人には理解できないだろう。現地でそう言われましたし、そう思います。しかし、だからこそ、日本だからこそやれることがあるのではないかなとも思います。
今回、ロータリークラブがスポンサーとなり、国際交流基金、日本大使館、外務省の多大な協力をいただき、日本人指揮者である柳澤寿男さんのバルカン室内管弦楽団による民族の共栄のためのコンサートは、音楽を通じての平和活動に貢献できたのではないかという手応えを感じました。
第一次世界大戦のきっかけを作ったサラエボ事件は、1914年6月28日に起きました。今回滞在したホテルヨーロッパから歩いて1分の所に現場がありました。オーストリア・ハンガリー帝国がサラエボに対して宣戦布告し、ドイツ帝国も参戦し、当初は数日、数週間、クリスマスには帰れるだろう。と楽観的に始まった戦争は、世界全体を巻き込んで、戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1000万人、負傷者は2200万人と推定される程の大惨事となりました。
その後の第二次世界大戦にも繋がり、サラエボ事件から約30年後に、広島・長崎に原爆投下され、その数日後に日本で世界大戦は終わりました。まさにサラエボで始まり、日本で終わりました。
今回の滞在は、まさに歴史の現場に立ち、平和活動への関わりを通して、様々な事に思いを馳せました。
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